山岸厚夫の内面的なプロフィール

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1951年

 誕生

福井県鯖江市寺中町に漆器屋の長男として生まれる
 保育園みんなと交わるの嫌いで、登園を嫌がって、二ヶ月は入園後行かなかった
  母とおばあちゃんとの言い合いが毎日のようにあり、どちらかというと母が強い口調でいい、おはばは仏壇の前で泣くという毎日だった
  争う雰囲気が嫌であった、なぜ いがみあうのだろうという疑問が常にあり、円満な家庭を求めた
   
 小学生1年生の時から、学校から帰ったら、まず山に薪拾い(毎日、いろり、風呂を炊くのに必要だった)
  その後、漆器の椀を外注先のおじさんやおばさんに運び、仕上がったものをリヤカーで持ち帰る
  学校の宿題は夕食後にするのが日課でした
  私の夢は世界中飛び回るビジネスマンになる事だった、
  しかし両親は長男だから漆器業の跡継ぎだ、そして金儲けが人生の目的だと言い続けた
  学校で学ぶ素晴らしい生き方とは世の中のために役立つ事をした方々の話だった
  両親と食い違うので、毎日、図書室で人生観のことを書いた本を読み漁りの毎日だった、同級生の女性からガリベンと呼ばれ、もてなかった
  海外に行くには大金がいる、しかしアマチュア無線なり,居ながらにして海外と方と話が出来ると知り、アマチュア無線の免許をとろうと
  勉強を始めた、ラジオを作ったりして無線の勉強したので、電気関係の授業やテストは100点だった
  人生観察を始めた、つまり身の回りの人、近所の人、親戚の人、また大きい会社の動向をテレビや新聞で観察し続けるということを小学生の時から始めた
どうような性格の人がどのような人生を歩むのかということ
観察してみると、以外と真面目でいい人が病気になったら不幸になるケースが多く、嫌われ者世にはばかるという言葉があるぐらい以外と嫌われている人が元気で長生きのケースが多い、正直いかに生きたらいいのか 難しいとの一言だ、還暦を迎えても難しいと思っている
 中学生相変わらず昼休みと放課後は図書館に行く毎日で宇宙とか数学、科学に興味をもってきた
  エレキギターにも興味を持ち、父に買ってもらい日々練習した
  中学3年の時は高校入試の勉強とアマチュア無線の勉強とエレキギターの練習の毎日であった
 高校生武生商業高校に入学、商売している家だから商業高校に、また大学行く予定もなかったし、そんなに頭もよくなかった
  1年生の時、アマチュア無線の電話級が合格した、しかし2級をとって14Mの周波数の電波を使わないと世界に電波が届かないので勉強して高校2年のときに2級をとった、受験の時はほとんどが大学生であった
2級というのはモールス信号を英文で打てなくてはならないし、英語の聞き取りテストのように、信号を聞いて英文を書けなくてはならないから結構難しい、また試験も大学のテストのように記述式で、真空管とは何かとか、トランジスタとは、電離層とは、などを書くテストです
  高校3年の夏休みに友達の親戚が漆の仕事をしていて東京の漆店に友達が就職する予定でバイトするとのこと、私も一緒に来ないかとの誘いがあり、無線機を買うお金も欲しいので、東京にバイトに行くことにした
  この夏休みのバイトは将来において大変役立った
なぜならポリサイトという塗料メーカーであり、その横には藤井漆店があり、塗料の世界も漆の世界も同時に接する場所で足立区にあった
はじめての東京で毎週日曜日は東京中を回った
ポリサイトでは塗料を詰めたり、容器を掃除したりするバイトであった、でも研究室があり、大学で研究していた方が数人おられ、部屋も同じだったので毎日、漆の科学的分析の話を聞きノートした
また塗料をつくるのに重合とかを手作業でするので成功したとか失敗したとかいう話が毎日あり、塗料とはいえ、出来の良し悪しがあるのだなあと思った、色合わせなども手作業で難しさを感じた
当時、学生運動の真っ只中なので、よく手袋はいて出かける姿を見た
 高校卒業卒業して、まず毎日父の横に座り、塗りを学んだ、あぐらを朝から晩までしているので足が痛い毎日であった、私は海外を飛び回るのが夢だったのでラジオを聴かず英語のテープを仕事しながら聴いていた
父はそれが面白くなく、なんで漆器屋が英語を勉強する必要があるのかと言ったが、やめろとは言わなかった、今から思えは実は心が広かったのだなぁと思う
  卒業した年の5月に父は私を連れて得意先周りをした、当時、大阪、名古屋、岐阜、東京、福岡にあり、全部挨拶回りした、ところが
次の月は父が行くかと思っていたら、お前行きなさいといい、私一人で集金と営業に行った
一人での東京、新宿の若松町に行くのに新宿駅からどこでも歩いて行けると思った地図を見ながら歩いた、聞く人聞く人が歩いて行くのですかと聞きなおした、歩いていけないですかと言うと、行けますよといって道を教えて下さった
疲れたが、歩いてかなりのところまで行けることを確信した
毎月出張した、私は東京が好きになった、銀座、原宿など当時の人気スポットを歩き回った
金土と仕事をして日曜日は仕事に関係のないところ、美術館、骨董店、ショップを回りをした、これがかなり勉強になった
しかし、両親には怒られていた、そんな見物、誰だって楽しいに決まっている、遊んでいないで一日でも早く帰ってきなさいと毎回注意されたが、それ以上に東京には魅力ある所が沢山あったので毎回の出張には新しいものを見に一日は使った
 20才

NHK青年の主張、福井大会に出場、「漆器の美しさを世界に」というテーマで話をして優勝した、
中部大会で1位になれなかったので全国大会には出られなかった
社会人向けの英語講座を毎週受講していたら、海外派遣の話があり、アメリカに20日間安く行けるという
その前にドイツ滞在1ヶ月のテストがあったが数万円で行けるテストには合格しなかったのでチャンスだと思い、申し込んだ
福井県で5人という狭き門であったが合格した
20日間 2万円だった記憶がある
これは万博での利益で青年を海外に派遣しようという話で近畿の青年100人の募集だった
結果的に、警察、自衛隊の方が多かった、商売人は10人ほどで私は商売人の息子ばっかりの班だった
でも結果的に楽しかった
ほとんどの方がはじめてのアメリカだったので慎重だし何人で一緒に行動していた
しかし私は親しくなった堀くんと二人で行動することに決め、常に日本人いないところに入って行き、になるべく英語で話しする機会を多くしようと打ち合わせしていた
最初、サンフランシスコに到着、観光地を回る、ヨセミテ公園でアメリカ人の集団に入って行き、夜パーティーをしようと言って私の部屋に10人くらい呼んだ、私の班のメンバーで20人がじゃんじゃん酒を飲んだ、じゅうたんに酒がしみたほどであった、
また違う公園では堀君がアメリカ人の誰かにけんかをふっかけた形となり、明日朝、川のほとりで決闘する話になってしまい助けを求めてきた、私の福井の仲間に少林寺拳法の達人がいたのでお願いし次の朝、一緒に来てもらった
しかし、相手は来なかった、来なくてホッとした

  エレキバンドも地元の方や福井の方と組んでパーティーや祭り時などに演奏して歩いた
最初はギターだったが、後にベースを弾くことになった、ある時、のど自慢をバックバンドをしている方から電話があり、きょうの晩空いてないか、実はいつものベースの人が風邪を引いて出られないので、来てもらえないかとのこと、わからないままに行った
やってみて大変だなあと思った、舞台の後方とはいえ、見つめられている場所である、それにお客様が何々の曲を歌いますと言ったら楽譜を調べて開く、次にアコーデオンの人が歌う方にキーはこれでいいですかと問う
一度下げて下さいという、今ならカラオケで機械で下げるだけですが、生バンド場合、楽譜を見ながらキーを一度下げて弾くのであるから頭使います、びっくりやら忙しいやら、でも何曲もこなしていくうちに慣れてくる、自分でもなればできるもんだなぁと思った
ギャラも当時としては良かったと思う、また頼まれて行ったが、それ以上はやめた、私はバンドのプロを目指しているわけではないから
  この頃、人生の生き方の勉強として、いろんな宗教関係の創始者の本を読みあさった
 23才

私は正直,漆器屋になることが好きではなかった、電気関係の仕事をしたかった時期もあったぐらいだ
しかし田舎では25才には男は結婚することが雰囲気としてあり、私の見合い場合も時々出ていた
もし結婚するとなると漆器は嫌だなって言っていられない本気ならなくてはと思い始めた
また当時チェーンストアの研究や指導で有名な渥美先生や藪下先生の講演を聴いた
また商業界の倉本先生とも会ったことがある、倉本先生に言われたことは「眠っている、起きなさい」と言われた
つまり私は本気で仕事に向かっていなかったと思う
当時、不況で転業する話も多かった、しかし先生方の話では今の仕事でうまくいかないのに異なる職業に替えてもうまく行くはずがない、
これからしようとする仕事では専門家との戦いだからより難しいとのこと
今の仕事を成功に導いてから違う仕事を多角化するならいいとの事
私は漆器という古臭い、伝統的な仕事を現在でも通用する雰囲気にするべきだと思った
それから東京、大阪、名古屋の漆器売り場を見て回った、客として、財布に5000円ある、自分が欲しいと思う漆器を買おう
何ヶ所を見て回ったが、なかなか自分の金で買いたい漆器が見つからない
ついに東京で欲しい汁椀を見つけました
ところが自分も塗り師なので買う椀の細かいところの塗りで気になるところがあると言い、ほかの在庫のある椀を出してもらい選びました
そこで気がつきました、いつも出荷する時に検品で、これぐらいはいいだろうと言っていたのに、自分が客の立場になると、うるさく言うもんだな、今後はお客様の目線で検品すべきと思いました

 24才将来にも繋がる商品開発を考えた時、身体を飾るもの、つまりファッション、服飾小物、アクセサリーは永久に存在するものだろう
漆のアクセサリーを作ろうと決め、木地屋さんに丸や三角などの形を以来して漆塗り、蒔絵、沈金をして作った
売る所は決まってない、そんな時に福井のNHKに出演することがあり、プロデューサーとお茶を飲んだ時、東京の人間だけど何かして欲しいことはないかと言われるので、ファッションブティックを紹介して下さいと言った、それは漆のアクセサリーを持って行き、店に並べて欲しいからだった
1ヶ月後 電話があり、原宿の会社だった、初めて電話して行った、するとそこはアクセサリーのデザインするところで原型を製作している工房であった、代表が中野さんで、それからずーっとお付き合いすることとなった
中野さんの紹介でホテルオークラのメノワという店との付き合いが始まり、東京画廊とも出会うことになった
そして東京での出張の宿泊所は東京画廊の社長さんの山本さん宅に世話になることとなった
この多くの一流の方々との出会いが私のデザイン感覚の目を養うこととなり、今、ものすごく感謝している
 25才結婚、お見合いでの結婚だ、それまで女性とデートしたりお付き合いの経験がなく、女性とお茶したり食事の経験は見合いしてからである
5回目のデートで結婚しようと心に決めた
そんなに付き合いの時間がない状況だったので結婚してから恋愛しているような雰囲気があった
しかし10人家族のところに20才の敏子が来た訳である、まして私が子供の時におばあちゃんよりきつい母である、当然、敏子は辛かったのが目に見えた
どうしたらいいだろう、奥さんの手伝いを親の目の前ですると男がなにをすると怒られる
奥さんが心休まる所はどこだろう
やはり親兄弟がいる実家だと考え、毎週土日は実家に行くことにした、幸い近く、車で15分のところ
家で洗濯ものをたたんだり、子供の世話は二人だけの部屋でするようにして手伝いしました
赤ちゃんが出来たときから10年間は遊びで私一人が出かけることはやめました
また一人で本を読むこともやめ、常に二人の共同作業を中心の生活にしました
結局、4人の子供が授かりました
 26才この頃から運命というか宿命的な事に興味を持ち、占いの色々を本を読んだり、その道の先生やセミナーを受けたりしました。
結局、生年月日と名前の字画数でみるのがわかりやすくて多くの方の相談を受けた時期があります
まずは家族、身内からみました、ある時に弟の友達が来て見てくださいというので見て、今年の8月に交通事故の危険性があるから気をつけてと言ったら、実際8月にトンネルの中で事故にあった、その時、弟の友達は私が言った言葉が頭に浮かんだそうだ
家内の姉が会社務めをしていて社内で色々悩みがあり、上司との難しさの話がありましたが、私はその上司は来年の4月までにはやめると思うよと言った、そうしたら本当に来年春にやめることになった、社内で評判になり、毎晩いろんな方から電話相談があり、300人ほど見てあげた
ある時、妹と同じ短大で宿泊所が同じであったので、一緒になった時に友達のを見てあげた、その中に一人は家族に問題があることを指摘した、そうだとうなづいた
それから数日後、両親から手紙が届いた、どこの病院でも治らなくてこまっています、お願いできませんかとのこと
私はびっくりした、これ以上、人の人生にとやかく言うのをやめようと決め、丁寧にお断りした
それ以降、人の運命占いをすることはなくなった
ただ、ある銀座のスナックでママが運命占いの本を持ってきて、一緒に見ましょうというので、そんな本見なくても私がわかるよと言ってママのを見てあげたら、びっくりし、ほかの女性も見てくださいと言って、次々と見た、そこで真剣に悩んでいる女性に会い、説明したら涙を出して有難うございますと握手を求められた
 37才初めての個展を浜松でした。今まで通常品のほかに自分が作りたいものを作っていたが発表する場がなかった
新聞で色々な商品開発している女性グループを知り、会いに行き、紹介して頂いた
そこのギャラリーが有名であったことから初日に静岡新聞の取材があり、新聞にかなり大きく取り上げられた、びっくりした
その個展でお客様が形やデザインを見るより漆器の手入れの方法の質問の方が多かった
こんなに漆器の扱いが難しいイメージという事は今後、若者は使わなくなるだろうと思った
もっと気楽に使える漆器を作るべきだと痛感した。
気楽使えるためには気楽に作るべきである、精神的にイコールでなくては気楽に使えない
漆器の上塗り現場はホコリを立てず、神経はる、これをなんとかしなくてはと考えた
次の日からほこりやごみを気にしない塗り方を研究した
またキズに強い漆とは、はげにくい漆器の研究をスタートした
  

皆さんがキズが付くのをこわがっておられる、それなら最初からキズだらけにすればいいと考えた
当時、ジーパンの新品ぽいのが嫌で洗濯して使った、それと同じことをすればいいと、塗り上がってから全体を研いで10年ぐらい使い込んだ雰囲気を作った、ジーパン感覚の漆器ても呼ばれた
次に剥げにくい丈夫な漆器とは…漆って、柔肌なの?、傷つきやすくはげ易いものなの?
私たちが仕入れする漆屋さんに聞いても確実な答えが返ってこない
元から研究すべきだと考えた
漆の木から漆の樹液を採ってみることから始めようと考えた
丁度その時、山形市役所に勤めておられる蜂谷さんという方が漆に興味を持ち、自分で休日を利用して漆の苗づくりから漆の樹液を採ったりしている記事を読み、電話してみた、本人と連絡がつき、山形に行ってもいいですかと言ったら、来てくださいとしのこと
早速行った、そこで実地で漆の苗作りを見たり、漆掻きを実地で習った
帰ってから、家の近くの山に入り、自然に生えている漆の木を20本ほど見つけて漆掻きをしようと段取りを始めた
丁度、私の家の隣の方が昔、漆掻きをしておられたので相談したら、道具も下さり、指導もして下さった
次の日から漆掻きが始まった
朝4時半に起き山に入る、5時に現場到着、鎌で表面をきれいにして、傷を小さく付けた。
するとプーンと香ばしく、ハッカのようなすがすがしい香りがする、なんといい匂いなんだろう、しばらくその香りに浸ってしまった。
まずは1〜2cmほどキズを付ける
すると漆の木はキズを治そうとそこに樹液を集めようとする、それが4日間かかる、その集まったころ、4日前にキズをつけた上部の部分に少し長めのキズを付ける、そしてスプーンみたいな道具で漆を掻き取る、このように5日目ごとにキズをつけて取る
漆の木は20本ぐらいだから大きな桶は必要なく、湯のみの小さいのに入れて集めて持ち帰った。
この20本も色々な場所にあり太さも違っていた
漆を採ってみると違いがあった、川のほとりの木は水分が多い、また特に太い木も水分が多い、畑のような場所で直径10cmぐらいのが一番良さそうな気がした、何回か採っているうちに自然とわかってきた
太陽の日差しがさしてくると極端に漆の出が悪くなる、つまり養分を幹や葉にいくためだろうと思う
早朝に採る漆がベストだと思った。
夏の間のみ3年間漆掻きをしました
その中でわかったことは漆を採ったあとに滲み出てたれて固まった漆は硬く石のようであり、鎌でたたくとカチンカチンという音がする具合であり、キズつきやすい物質ではないと思った
この漆の力を生かす塗り方をすれば丈夫な漆器が出来るはずだと確信した。

また工房の周りに漆の種をばら撒いたら2、3年で芽が出て大きくなった、成長が早く、仕事場が暗くなってきて、またケムシが多く工房にも入ってきて困った。漆の木の枝を切り、結局、全部切った。
ところが切ったあとから沢山の芽が出てきて、その成長の早いこと早いこと、それで又切った、また芽が出て成長が早い。
いかに生命力が強いかわかった、中国の漆の採り方は養生掻きと言って、今年漆掻きしたら数年休ませ、また採るというやり方だが、日本の漆掻きの方法は殺し掻きと言って、今年一年で採りきったら切ってしまうやり方だ、
殺し掻きの方が漆の木の成長は早いので効率がいいと私は思う

  

自分の漆器の仕事だが、流行というか売れる商品を追いかけるのか、自分が作りたいものを作っていくのか迷う時期があった。
家内とじっくり話し合った結果、自分に正直というか、自分が心からいいと思い作りたいものを作って行こうとの話になった。
木地屋に行った。
あちらこちらに木地乾燥して積んでいる材料が沢山あった。
おじさんが板から茶たくを作るための荒どりといって、大まかな円の形にする作業をしていました。大体まるくなればいいので、外側が12カットであったり、11または12カットなどサマザマでした。
その無意識での作業と決まりのないカットした形に感動しました。
木工所の代表に外側のランダムなカットはそのま残し、茶たくや銘々皿は内側のみ、盛り鉢は内側と裏面を挽いてもらいました。
荒々しい木地たちが出来上がりました。
それを毎日、黒漆で塗り重ねました。

1989年
(平成元年)

38才

荒挽仕上げの作品が仕上がる頃に私にとって二番目の個展となる、国立の「岳」さんで披露するチャンスがおとずれた。
荒っぽい仕上げに荒っぽく黒漆のみの重ね塗りの盛り鉢、大中小の三個だ
展示会の準備の日、知り合いの主婦の方数人が手伝いに来て下さいました
ほとんどの作品は黒または朱漆の艶消し仕上げの色んな形の作品でした。
全部並べ終わった、しかしまだ包みがあると主婦の方が言われた、「実は私が最近作った作品ですが、並べるには雰囲気が合わないかな
」と言った、「でもとにかく見せて下さい」と言われ、おそるおそる見せた
皆さんが「きれいじゃないですか」と言われる
私は「エッ、ゴツゴツしていて塗りもブツブツがあり、決してキレイとは言えないと思いますが」
主婦の方々は「いや、きれいです、素敵です」
私はうれしいやら、ちょっと照れるやらでした。
他の作品とは雰囲気が異なるので外から見えるガラスのショーケースに3点を並べました。
初日、最初に入られたお客様は男性で骨董屋さんらしく、お話したら過去にこれほどの豪快な盛り鉢は見たことないと言われた。
次のお客様も男性で美術大学の教授で私の名前と住所を聞き控えられました。